玉たすき 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ4

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前回、私はその昔唐土で語られた三神山(えい洲、蓬莱ほうらい、方丈)の逸話から話をはじめ、天武天皇は薬師寺建立の際に、大和三山の一つである畝傍山を強く意識していたらしいこと、さらにはその畝傍山を三神山の一つである瀛洲と見立てていたらしいことを述べた。そして次回には、「神武天皇が治世を始めるのがなぜ畝傍山の麓でなければならなかったのか」との疑問のお答えを提示することを予告していた。

けれども、この間にその前に語っておかねばならぬことを思いついた。思いつきでしか動かない私にとって、この思いつきを無視するわけにはいかない。ちょいとお付き合い願う。

それは天武天皇はなぜ畝傍山を瀛洲と見立てたのか、と言うことである。「大和には 群山むらやまあれど」(万葉集巻二・2)と舒明天皇が歌ったように、大和の地には他にも数々の山がある。そして古くからの信仰を集めているような山も少なくはない。そのような中から、なぜ畝傍山が選ばれたのか・・・・

ここで重要になってくるのが「三」という数字である。前回にも述べたように瀛洲は、道教においての三つの神山の一つだ。ということは大和の地に同様のものを求めるとなれば、それがいかに秀麗な山容を持ち多くの信仰を集めていたとしても単独の山、例えば三輪山であっては三神山にはならない。三つの山がセットとなったその一つでなければならないのだ。となると明日香に都をかまえていた天武天皇にとって最も心に焼き付く三つの山とは、今我々が呼ぶところの大和三山、すなわち香具山・耳成山・畝傍山の三山であっただろうことは想像に難くない。

コメント

  1. 玉村の源さん より:

     妄想という表現をはじめとして、控え目なご発言ですが、内容はよく納得できます。
     いけてるのではないでしょうか。

    • 三友亭主人 より:

      源さんへ

      源さんにそう言っていただけるととてもうれしいです。
      本当はもっと丁寧に話を進めなきゃならないんでしょうが、今の私にはこれで精いっぱい。

      でも思いついたことは、言っちゃいたいんですよね。