再び9月1日に思う

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はじめに

今年もまた9月1日がやってきた。98年前のこの日昼、東京を中心とした関東平野はこの世のものとも思われぬ災厄に襲われた。

言うまでもない…関東大震災である。

この災厄により多くの命が奪われたことは周知のごとくであるが、その中にこの国の民の暴走により奪われた朝鮮半島の民の命が奪われたことを私たちは忘れてはならない。だからこそ、その事件を忘れてはならないとするこの国の人々と、この国に住む朝鮮半島出身の人々によって、その失われた人々のために慰霊祭が毎年行われてきた。そして、その舞台となった東京都の歴代の首長は、曲がりなりにもその惨劇について触れてきたあの石原慎太郎でさえ…である。しかしどうしたことか、今の知事は就任してもう5期目6期目だったかな?の9月1日を迎えるというのに、一切このことに触れない。様々な立場からそれを求める声が上がっても、彼女はそれを一切無視し続けている。

何が彼女をそうさせているのか…彼女本来の思想がそうであるのか、あるいはおそらくそのような思想を持っているだろう彼女の支持者を思ってのことなのか、それはわからない。けれども、彼女が2度目の選挙を潜り抜け、今もなお都知事であるという事実は彼女のこのような振る舞いに目をつぶる人々が少なからずいることを意味する。そしてその風潮は何も東京都にとどまることではない。

だからこそ、私たちは…かの惨劇を忘れてはならない…と叫び続けなければならない。ここで、以前書いた文章を再度お示ししたいと思う。かつて、折口信夫の一首に触れ触発されて書いたものだ。そしてまた、そのすべてを一つにまとめてお示しもした。だから、そのままお示しするのはちょいと皆様に申し訳ない。

だから、以前皆様にこれらの記事をまとめてお示しした後、とあるミュージシャンのコンサートに行き出会った歌がある。この惨劇のいくつかの場面を歌ったものだ。ミュージシャンとは中川五郎。一定の年齢の方ならばさもありなん…と思われるであろう。あの「受験生ブルース」の作者である。そんな歌々もいくつか紹介できればと思う。

顔よき子らも頼まずなりぬ・・・折口忍の場合

國びとのウラさぶる世にひしより、

顔よき子らも、

頼まずなりぬ

大正十二年の地震の時、九月四日の夕方こゝ※1を通つて、私は下谷・根津の方へむかつた。自警團と偁する團体の人々が、刀を抜きそばめて私をとり圍んだ。その表情を忘れない。戦爭の時にも思ひ出した。戦爭の後にも思ひ出した。平らかな生を樂しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に値(ア)つて以來といふものは、此國の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふやうな事が出來なくなつてしまつた。

(「自歌自註」 角川書店 日本近代文学大系 46巻 折口信夫集)

※1・・・増上寺山門

民俗学の泰斗であり、歌人としてもこの国の文学史の一画に揺るがざる地位を占める折口信夫(歌人釈迢空)のこの一首は以前にも一度紹介している(「顔よき子らも、 頼まずなりぬ」)。

1923年の夏、沖縄への調査旅行に出かけていた折口信夫は調査を終え東京へと戻る途中、震災の報を受ける。神戸より関東に向かう救護船に乗り込んだ彼は9月3日に横浜に上陸し、そこから徒歩で自宅のある深川へ向かった。

翌9月4日のことだ。深川へあと7~8kmの芝増上寺の山門近辺を通ったとき「自警團と偁する團体の人々」が「刀を抜きそばめて」彼を「とり圍んだ」のである。上野誠氏の「魂の古代学-問いつづける折口信夫」によれば、大阪出身ゆえ関東とは違うアクセントで語り、朝鮮語の心得もあったため間違えられたのかも知れなかったということだが、とにかく彼は刃を突きつけられた。

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「平らかな生を樂しむ国びとだと思つてゐた」人々が「一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ」と言う事実に、彼は以降この国の人々が信じられなくなったのである。

・・・顔よき子らも、頼まずなりぬ・・・

かう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえ・・・志賀直哉の場合

東京では朝鮮人が暴れ廻つてゐるといふやうな噂を聞く。が自分は信じなかつた。松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追ひかけるのを見た。
「殺した」直ぐ引返して来た一人が車窓の下でこんなにいつたが、余りに簡単すぎた。今もそれは半信半疑だ。

・・・丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…「―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ」…「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」二人は笑つてゐる。

(「震災見舞」岩波書店志賀直哉全集第 3 巻)

志賀直哉の一文である。

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朝鮮人でないことを分かっていながら、ただただ気に入らないとの理由で命を奪うといった事件も少なからずあったように読める。伝聞に過ぎない話であるが、刃をちらつかせた大勢に囲まれ恐ろしくて言葉が出なかったため、あるいは知的に障害があって、またあるいは言葉に障害があって、うまく尋問に答えられなかったがために「朝鮮人」と断定され殺された方も少なくはなかったという。

「然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ」二人は笑つてゐる。

とは恐ろしすぎて言葉を継ぐことも出来ないが、「一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ」というこの国の民(あるいは人間という存在の)の一面であることも認めねばならない。だからこそ我々は語り継がなければならないのだ。決して「関わり」がないからと言って「先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」などと言ってはいけないのだ。

そんな事よせ。よせ日本人だ・・・江口渙の場合

 喧嘩はしばらく続いていた。すると在郷軍人らしい方が、・・・突然座席へ突っ立ち上がった。
「諸君、こいつは鮮人※2だぞ。太い奴だ。こんな所へもぐり込んでやがって」・・・
「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」
・・・時どき脅えきったその男の声が聞こえた。しかも相手がおろおろすればするほど、みんなの疑いを増し興奮を烈しくするばかりだった。(その男は次の駅で引きずりおろされ)物凄いほど鉄拳の雨を浴びた。
「おい。そんな事よせ。よせ日本人だ。日本人だ。」
私は思わず窓から首を出してこう叫んだ。側にいた二三の人もやはり同じようなことを怒鳴った。…こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。私には、一箇月ほどたった後に埼玉県下に於ける虐殺事件が公表された時、あの男も一緒に殺されたとしか思えなかった。
そして無防御の少数者を多数の武器と力で得々として虐殺した勇敢にして忠実なる「大和魂」に対して、否、それまでにしなければ承知のできないほど無条件に興奮したがる「大和魂」に対して、心からの侮蔑と憎悪とを感じないわけにいかなかった。ことに、その蒙昧と卑劣と無節制とに対して。

※2 この語は朝鮮の民に対する差別語であり、本来なら使用をはばかるべきであろうが、ここは作品のオリジナリティーを尊重し、訂正することはしなかった。

とは、 プロレタリア文学の活動家江口渙の「車中の出来事」(東京朝日新聞1923(大正12)年11月11・12日)の一節である。その指摘が事実であろうがなかろうが、震災後の際限を知らぬ不安の中、人々は「在郷軍人」らしき者の言葉を信じて疑わない。いや、それは真実であったかどうかはたいした問題ではなかったのだ。今自分達が背負わされているどうにもならぬ苛立ちを解消させてくれる対象があればそれで良かったのだ。そして「在郷軍人」らしき男が「その男」をその対象だと先に宣言した。

「諸君、こいつは鮮人だぞ」・・・・と。

こうして人の雪崩にもまれながら改札口の彼方にきえて行ったその日本人の後姿をいまだに忘れる事はできない。

「その日本人」がどうなったのか・・・おそらくは作者の推定の通りであろう。

正気を保っている者もその場に少なからずいたこととは思う。しかしその良心を発露させるにはこの場の空気はあまりに殺伐としていたのだろう。その多くは口をつぐんでしまった。稀に蛮勇をふるい口に出したところでもう誰もそんな人々の発言などは誰も耳を貸さない。※2でも指摘した文中の「鮮人」なる差別語・・・この一文をよく読めば作者がこの語を是認してはいないことがよく分かるかと思う。作者はこの語を使用する「在郷軍人」らしき者の醜悪さを告発するためにあえて「在郷軍人」らしき者の言葉をそのまま使用しているように見える。そしてその差別意識は被害者である男の側にもあった。

「おら鮮人だねえ。鮮人だねえ」

そして江口はそういったこの国の人々を強く糾弾する。それはかの時代においては極めて勇気ある発言であったと思う。

実際、もうお終ひかと思つた・・・山田耕作の場合

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 山田耕作君はハルビンで大震の報に接した。急いで東京へ帰らうとして、先ず護身用のピストルを買つた。それを何かに包んで、ルツクザツク※3の奥深く納めた。・・・甲府を出てからのことであつた。車中に興奮のあまり気の変になつた学生があつた。学生の目には、車中の誰も彼もが○○※4に見えた。学生は車中の総ての人に荷物の検査を迫つた。耕作君の袋の中にはピストルがある。・・・若かし、それを見られたら、自分は殺されると思つた。
耕作君は終に立ち上がつて演説した。(荷物検査をするなら陸軍の出張所に行くように説得し、みんなの賛成を得る。)
耕作君はほつとした。
「実際、もうお終ひかと思つた」と、耕作君は幾度も言つた。

※3リュックサック
※4本来ここには「鮮人」なる語があったとされるが、当局の検閲により伏せ字にされたらしい。

(小山内薫 「道聴途説―耕作君とピストル」 女性 10 月特別号)。

ここではかの大作曲家山田耕作がその不安から来る苛立ちの対象になりかけている。興味深いのは山田耕作が何を恐れピストルを購入したかである。ただ単に震災後の治安の悪化を恐れてのものか、朝鮮人が暴動を企てているとの流言を信じてのことかは知らない。山田耕作がどこまで被災地の情報を手に入れていたか、知りようがないためにどちらとも断定は出来ないが私は後者ではないかと思っている。でなければ、いくら治安が乱れてるといても、ピストルまで購入に帰国するというのは行き過ぎではないかと思う。しかしここでの目的は山田耕作を単純に糾弾することではない。さらに文を読み進めよう。

「興奮のあまり気の変になつた学生」とあるが、その興奮の原因には朝鮮人達の暴動に対する恐れがあったのだろうと思う。だからこそ、彼は人々は恐れたのだ。そして「学生の目には、車中の誰も彼もが○○に見え」、その確認のために・・・すなわち暴動のために凶器なり毒物なりを所持していないかと「車中の総ての人に荷物の検査を迫つた」のだ。

そして山田は恐れる。自らの袋中のピストルの存在が知られることを。これが明らかになれば、学生は自分を「朝鮮人」と断定するに違いない。そして一端この学生が自分を「朝鮮人」だと断定すれば・・・後の事は容易に想像できたのだ。とすれば、やはり山田耕作の胸中にもこの学生と同様の不安があった事は否めない。彼もまた「朝鮮人」の暴動を恐れる一人であったのだ。ただそれが、そのままその虐殺につながるほどの思いが彼の胸のなかのあったことを意味しないとも思う。

[OFFICIAL] 中川五郎 – トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース(Full Clip / 17min 49s)

人々は恐れた。震災という未曾有の出来事の出来により、この世には何事もありうるのだと・・・そしてその恐怖の矛先になったのが、日頃自分たちが抑圧し、必ずや自分たちを怨嗟の対象にしているに違いないと思っている「朝鮮人」だったのだ。そしてその時のこの国の人々の異常なる心象は、彼等をスケープゴートを見なし、それを抹殺することにより安定を求めたのであった。

上にも述べたように「朝鮮人」という烙印は事実であろうとなかろうと問題ではなかった。「朝鮮人」だと見なせばそれで良かったのである。この事実は自らの意思にそぐわぬ存在を直ちに「在日判定」し、罵倒することをはばからぬ今日のネットの世界も彷彿とされ、過去の出来事とすませておくことは出来ないのだ。

中には七八人社会主義者もはいっているよ・・・亀戸事件のこと

すでに述べたように関東大震災の際に殺されたのは「朝鮮人」だけではない。決して少なくはない日本人も、異常な状況下における狂気によってその貴い命を奪われた。そしてそんな狂気を・・・決して見逃すことなく巧妙に利用しようとする存在によって・・・

関東大震災の直後そのどさくさに紛れ、アナーキストの大杉栄と内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一もまた尊い命を官憲により奪われた事件(甘粕事件)は多くの方の知るところであろう。さらには社会主義者の川合義虎、平沢計七ら10名が亀戸警察署に捕らえられ、9月4日から5日かけて習志野騎兵第13連隊によって刺殺された(亀戸事件)。これに抗議して編まれたプロレタリア雑誌『種蒔き雑記』に収録された無署名の一文「平沢君の靴」には震災の 2 日後に平沢が連行され、その翌日、著者が荷車に石油と薪を積んでひいて行く巡査と出会った場面が描かれている。

「石油と薪を積んで何処へ行くのです。」
「殺した人間を焼きに行くのだよ。」…
「昨夜は人殺しで徹夜までさせられちゃった。三百二十人も殺した。外国人が亀戸管内に視察に来るので、今日急いで焼いてしまうのだよ。」
「皆鮮人ですか。」
「いや、中には七八人社会主義者もはいっているよ。」
そこで、著者はその死体のある場所を教えてもらい、そこへ向かう。そこに二三百の鮮人、支那人らしい死骸が投げ出されていた。

自分は一眼見てその凄惨な有様に度肝をぬかれてしまった。自分の目はどす黒い血の色や、灰色の死人の顔を見て、一時にくらむような気がした。涙が出て仕方がなかった。… その時私はいつも平沢君のはいていた一足の靴が寂しそうに地上にころげているのを見た。

(「天変動く 大震災と作家たち」より引用)

ここでは朝鮮人の虐殺が単に民衆の暴走によりのみ行われてはいなかったことが明らかにされているが、それと同時に、それに紛れて権力にとって都合の悪い存在を無き者にしようとの力学がそこに働くことを見ることが出来る。おそらくはそんなに高い位置から下った命令ではないかと思う。けれどもその上層部の意向を忖度する者たちがこのような行為に及んだのだと思う。

いずれにしろ震災後における異常な心理が、このようなこのような状況を招来したことは疑いもない。人々の心は「すさみ切」り、官憲はその異常につけ込み邪魔者を排除したのである。異常な出来事は私たちの心を荒廃させ、そして異常な出来事を異常なことと思わなくする作用があるらしい。

心しなければならない。そして最後に・・・

この一文が無署名であると言う事実は軽くはない。名を明らかにすることが、その作者の命を危ういものにすることは明らかな状況であったのだ。そんな時代が再び訪れようとしているのかもしれない・・・

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

マルティン・ニーメラー

この国の首都を未曽有のの災厄が襲ったあの日を思い出すべき9月1日間近に迫っている。重苦しい話ばかりが続いている。お付き合いいただいている皆様には実に申し訳ないのだがもう少しで終わる・・・最後までお付き合いいただきたい。

神戸の震災のこと

1923年9月1日11時58分32秒に東京を中心とした地域に訪れたこの災厄の後、いくつもの災厄はこの国を襲っている。中でも20年前に神戸を襲った阪神淡路大震災、そして・・・私の郷里をきれいさっぱりと流し尽くした東日本大震災は、まだ生々しい記憶の中にある。

例えば・・・神戸を襲ったあの最悪の日の次の日、私は偶然にも若い人たちに関東大震災に際しての朝鮮人虐殺について語る予定でいた。だから・・・時間を追って聞こえてくるその被害の大きさに、その地に住む人々のどうしようもないほどの不安を思った。そして、危ぶんだ・・・あの日と同じことが起きやしないかと・・・そんな言葉を私は、翌1月18日に若い人たちの前で口にしてしまった。考え過ぎだ・・・今は時代が違うと若い人たちは口々に笑った。むろん、周知の通り、私の不安は杞憂に終わった。それどころか、あの困難な日々がかつてあったこの国の人々と「在日」と呼ばれていた人々との間にあった暗黙裡の溝をいささかでも埋める役割を果たしたことは多くのメディアが報道したところである。

けれども私は知っている。神戸の街には多くの「在日朝鮮人」が暮らしている。そんな彼らについて、ほとんど読者のいないような「ゴロツキ新聞」ゆえに多くの人は知らぬままに過ぎたが、彼らが犯罪行為に及ぶ恐れがあり自警団の組織が必要である(あるいは組織された?・・・手元に記録がないゆえどちらだったか判然とはしない)との記事が載せられていた。

東日本大震災のこと

そして・・・今回の東日本大震災。被災者たちの整然とした落ち着いた行動は、海外にも報道され惜しみない称賛の声が寄せられた。このこと自体は実に素晴らしいことであろうし、私も自分の郷里の人々へのこういった声には、実にうれしいことであった・・・が・・・うれしく感じながらも、いささかの疑問を感じずにはいられなかった。表立って報道されることはなかったものの、困難な生活の中、ついつい賞賛されざる行為に手を染める・・・あるいは毎日を送る人々がなかったとはいえなかったからである。ただ、私が疑問に感じたのは、そのような人々がいたのにもかかわらず海外から賞賛を受けていたことでは決してない。そのような事実があったことをマスメディアをはじめ、この国の人々が目を閉ざそうとの意志が感じられてならなかったからである。賞賛されるべきこの国の被災者たちの中に、そのような悪事に走るものなどはいない・・・みんながそう思おうとしている事実に対して、何かしら居心地の悪さを感じたのである。

私も被災地には幾人も知人を持つゆえ、そういった情報は少なからず聞いた。同じように被災地石巻を郷里に持つ辺見庸も、郷里の人々の、賞賛されざる暮らしについて情報を得ていたようだ。

「芸能タレントとテレビキャスターと政治家が我も我もと来て、撮影用に酒なんか飲んだりしてね。人々は涙を流して肩を組み、助け合ってます、復興してます、と。うそだよ。酒におぼれ、パチンコ行って、心がすさんで、何も信用できなくなってる人だって多い。PTSD(心的外傷後ストレス障害)ね。福島だって『花は咲く』どころじゃないんだよ。非人間的実相を歌で美化してごまかしている。被災者は耐え難い状況を耐えられると思わされてる」

(毎日新聞 2013年05月09日 東京夕刊)

被災地以外の多くの人々は、ひょっとしたらうすうす感じていたのかもしれない。マスメディアだって当然知っていたはずだ。けれどもみんな目を背けたのだ。美しい日本人像を壊さぬために・・・・そして隠しようもなく、賞賛されざる行為が表ざたになった時・・・一部のネットユーザーのは、「在日外国人」の仕業に仕立て上げた。

もちろん、これまた多くのこの国の人々は真に受けることはなく済んだ。確かに関東震災の時代とは、この国の人々の意識は明らかに違っている。しかし、少数ではありながら、こういった際に「在日外国人」についての流言が飛び交うという事実は変わってはいない。そして・・・ともすれば、かなり多くの人々がそう言った言説に流されてしまう事態が生まれかねないのでは・・・そしてまた、ほんのわずかの差異をその理由として、自分たちと違うものを持っている人々を「在日外国人」と断じ排除しようとする人々が恐ろしい振る舞い起こしはしないかと私は秘かに危惧している。

1923年福田村の虐殺

見据え続けねばならないもの

東日本大震災以降直後の被災者たちの行動は確かに賞賛されるに値するだろう。けれども、それが誰かさんの言う「美しい国 日本」と重ねあわされる時、それはその規格に合わない人々は排除されてしまうことを意味する。だから我々はそれを見ようとはしなかったのだ。見てしまえば・・・それは「美しい」ものではなくなってしまうからだ。そして、どうしてもそれを見なければならないとき、その苦痛に耐えることのできない一部のものは「美しい国 日本」の国民以外になすりつけてしまうのだ。

例証として、かつて大津のいじめ事件が発覚した時、ネット上ではいじめを行った中学生たちが同和地区出身のものだとか在日外国人であるだとかいう流言が少なからず書きこまれていたことをあげられよう(この事件に関わらず、ネットの世界ではことあればそれを一部のマイノリティーの仕業に仕立て上げる)。無論事実ではない。けれども、彼らはそう言うことにしておきたいのだ。そうでないと不安なのだ。

人間は誰しも善であり、悪でもある。けれどもなるべくなら自分に悪の側面があるとは信じたくない。だから・・・様々な場面で良からぬ話を聞いたときに、それは自分とは違う「人種」のやったことだと思いたいのである。そしてなるべくなら「誇り」ある人々と同じ「人種」でありたいと思う・・・

こんな事を言っている私だってそうだ。だからここに告発しているのである。そんなふうにはなりたくないからこそ、自らもそうであることを自覚しなければならないからだ。

おん身らは 誰をころしたと思ふ・・・再び折口忍の場合

もう少しだけ重苦しい話にお付き合いいただく・・・話題は再び折口信夫に戻る。

先に述べたように関東大震災の発生を折口信夫が知ったのは、沖縄への調査旅行の帰途である。神戸からの救護船に乗った折口は、3日に横浜港に到着。すぐさま深川の自宅へと向かう。この時に自警団なる一団に取り囲まれ命を落としかけたこと、「9月1日に思う・・・1」に示した如くである。そして彼はその時の思いを1首に託した。

國びとのウラさぶる世にひしより、

顔よき子らも、

頼まずなりぬ

ただ・・・彼が自宅にたどり着くまでに経験したことはそれだけではなかった。

道々酸鼻な、残虐な色色の姿を見る目を掩ふ間がなかった。歩きとほして、品川から芝橋へかゝったのが黄昏で、其からは焼け野だ。自警団の咎めが厳重で、人間の凄まじさ・浅ましさを痛感した。

「砂けぶり自註」 (折口信夫全集第30巻 中央公論社)

そしてその圧倒的な量の悲劇を、彼はとうとう得意の短歌に読むことが出来なかった。どうにも三十一文字には収まりそうもないほどの悲劇が彼の脳裏に去来したのであった。そして彼は次のような形式を選び自らの思いを表出する。

「砂けぶり」と呼ばれる詩群である。ここでは「砂けぶり二」と題された1編を紹介しよう。

砂けぶり 二

焼け原に 芽を出した
ごふつくばりの力芝チカラシバ
だが きさまが憎めない
たつた 一かたまりの 青々した草だもの

両国の上で、水の色を見よう。
せめてもの やすらひに─。
身にしむ水の色だ。
死骸よ。この間、浮き出さずに居れ

水死の女の 印象
黒くちゞかんだ 藤の葉
よごれクサつて 静かな髪の毛
─あゝ そこにも こゝにも

横浜からあるいて 来ました。
疲れきつたからだです─。
そんなに おどろかさないでください。
朝鮮人になつちまひたい 気がします

深川だ。
あゝ まつさをな空だ─。
野菜でも作らう。
この青天井のするどさ。

夜になつた─。
また 蝋燭と流言の夜だ。
まつくらな町で 金棒ひいて
夜警に出掛けようか

井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々─。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう

かはゆい子どもが─
大道で しばいて居たつけ─。
あの音─。
帰順民のむくろの─。

命をもつて 目賭した
一瞬の芸術
苦痛に陶酔した
涅槃の 大恐怖

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名ミナにおいて─。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい

我らの死は、
涅槃を無視する─。
擾乱ジョウランの 歓喜と
飽満する 痛苦と

「砂けぶり二」 (折口信夫全集第22巻 中央公論社)

1聯から3聯までは、彼が横浜から歩いてきて目に入った惨状が描かれている。4聯は自警団囲まれた時のことを歌ったものだろうか・・・そして5聯。折口は深川の自宅に到着し、ひととき安堵の思いにひたる。が・・・その夜(6聯)、ただならぬ異様な空気を彼は味わうことになる。以降は、彼の自警団なる群れに対する抑える事あたわぬ糾弾が繰り広げられる。

井戸のなかへ
毒を入れてまはると言ふ人々─。
われわれを叱つて下さる
神々のつかはしめ だらう

ゆえなき理由により殺される朝鮮人。彼らは日本人にとって共同体外の存在である。そんな彼らを折口は「神々のつかはしめ」と呼んだ。これは古代において共同体の外からの訪問者を「まれびと」と呼び、崇拝するとともに恐怖の目で見ていたと考える折口信夫独自の視点である。そして人々はその恐怖ゆえ(この場合そこには日頃自分たちが彼らを虐げているという負い目があるのだろ)、その「まれびと」を殺してしまう。けれども・・・その「まれびと」は「われわれを叱つて下さる神々」が「つかはし」てくださった存在であったのだ。共同体が神として祀り、自分たちの安穏を希うべき・・・そんな存在であったのだ。

かはゆい子どもが─
大道で しばつて居たつけ─。
あの音─。
帰順民のむくろの─。

そしてその大人たちの狂気は「かはゆい子ども」にまで伝染する。

おん身らは 誰をころしたと思ふ。
かの尊い 御名において─。
おそろしい呪文だ。
万歳 ばんざあい

彼等は自分たちの狂気に対していささかの疑問をも感じてはいない。それよりもむしろ正当な行為だとさえ思っており、自らの行為に「陶酔」し「歓喜」している。だからこそ「かの尊い 御名において」て「万歳 ばんざあい」と「おそろしい呪文」をあらん限りの力で叫ぶのである。「××××万歳 ××××ばんざい」と。無論「××××」に入る「かの尊い 御名」がなんであるかは自明である。そして彼はその狂気をあたう限りの力を持って厳しく糾弾する。「おん身らは 誰をころしたと思ふ。」と・・・

かような狂気は現代を生きる我々にも決して無縁なものとは言い切れない。いや、むしろそのような狂気に際限のなく親和性を増大させているのが、この国の「今」ではないかとすら感じられてならない。杞憂であってほしいと心の底から思う。

いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わたしはすでに予感してる。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。

辺見庸「非情無比にして荘厳なもの」(水の透視画法 共同通信社)

震災後・・・とよく囁かれている。震災を経験した我々はその前の我々にはもう戻ることが出来ない。何事でも起こりうるという言いようのない不安を絶えず感じつつ生きてゆかねばならないのだ。そしてその不安に耐え切れず、あらたなる「まれびと」を探し、「擾乱の 歓喜と 飽満する 痛苦と」とをこの国に再現せしめんとする一団があちらこちらの街角で聞くに堪えない言葉をがなり立てているではないか。何年前であっただろうか、大阪は鶴橋の街頭で「鶴橋大虐殺が起こりますよ」と絶叫した少女がいた。もちろん、彼らのそれは言葉の上だけであって実際の行為にまでは及ばぬのかもしれない。

けれども、彼等彼女らの狂気を上手く利用できぬかと虎視眈々と見つめているものがいないと誰が言えよう・・・かの日の甘粕正彦のように、そして彼が忖度していたであろう誰かのように・・・

そして・・・その誰かの視線が見据えるものは・・・

我々はこれに抗わなければならない。二度と「かはゆい子どもが大道で」罪なき人々の「むくろ」を「しば」く「あの音」が聞こえるような社会を作ってはならないのだ。そのためには非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるの、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実」(辺見庸 上掲書)を手にしなければならないのだ。そして・・・折口が「朝鮮人になつちまひたい 気がします」と戯笑しながら、しかも自らが「朝鮮人」の側にあるとその立場を宣言したように、その確かな立ち位置を構築せねばならない。