鳥見霊畤の所在について   やっと最後です

シェアする

鳥見とみの霊畤まつりのにはの所在について」と題した今回の一連のレポートは、私が理解しえた範囲でという限定付きではあるが、ちゃんとした方々が文章に残されたことを私の都合の良い部分だけを抜き取っているがご紹介してきたものであるから、眉に唾を付ける必要はなかったかと思うが、今回は違う。私の僻見を述べさせてもらうつもりだ。

とはいえ、何か新たな考えを皆様に提示するような準備ができているわけではない。ただ、ここまで書いてきたことで一定の方向に考えが落ち着きつつあることに、私の中にいささか落ち着かないものがあることは否めない。私にはどうしても桜井市外山とびの「鳥見山」の近辺に「榛原」なる地名がないことあるいはその痕跡を見つけられないことがどうしても気にかかる。

てなことで、もう一度宇陀の「鳥見山」の側にたって考えてみようと思う。当然、近年語られているアカディミックな視点からの考察に異を唱えることになる。が、私にそんな考察に抗しうるだけの十分な準備があるはずもない。ただ…なんとなくこうも考えられないか…ということを書きつけていこうと思っているだけだ。だから、今回はいつもに増して眉に唾をたっぷりとつけていただかなくてはならない。

前置きはここまでにして、いよいよ我が妄想を開陳したいと思うが、その前に下の図を見ていただきたい。

白抜きで示してあるのは、一連のレポートで紹介された地名である三輪山 耳成山 香久山はおまけである。「鳥見山」が二つあるのはご承知の通り。「外山」という地名の下の「鳥見山」が桜井市外山の「鳥見山」で、画像の右上の「鳥見山」が宇陀の「「鳥見山」である。

さて、上の画像はレポートの5回目鳥見霊畤の所在について その5でご紹介した、

鳥見山のほぼ真北に小字「式嶋」があり、この地名は欽明天皇の磯城嶋金刺宮の有力な比定地と考えられる。つまり、神武紀にいう鳥見霊畤は欽明天皇の磯城嶋金刺宮の南山ではなかったかという想定を導く。このことが、可能性の高いものとするならば、神武紀の一部に欽明朝の状況が挿入されていることになる。

千田稔 古代王権論と文芸社の射程」『日本研究』国際日本文化研究センター紀要16巻1997年

との見解を裏付けるかのように、伝磯城嶋金刺宮しきしまのかなさしのみや跡がほとんど「外山」と隣接するように南北に位置している。事実、現在にあっても磯城嶋金刺宮跡と伝えられている場所に立ち、南を見ると外山の「鳥見山」がまことに優美な姿を見せている少々目に付く近代建築をなかったものとする想像力が必要とされるけれども…。「郊祀」という言葉の本来のありように従って、その場所を宮処の南に求めたのが上の考えである。

けれども、その同じ場所から東に目を向けると、宇陀の「鳥見山」もその姿を見晴るかすことができるのも気にかかる。宇陀の「鳥見山」は、細く長い泊瀨谷のつきあたった場所に、堂々と聳え立っている。歴代の皇居跡を見るに大雑把に見れば、巻向→磐余・初瀬・敷島→明日香という流れになっているが、その磐余・初瀬・敷島からはいずれも初瀬谷を通して宇陀の「鳥見山」を見晴るかすことができる畝傍山の麓あたりからも見えないことはない

そしてその方角は紛れもなく太陽が昇りくる方角である。

そういえば、大和の神奈備山たる三輪山も、ヤマト政権発祥の地といわれる纏向からは東に聳えている。かつて話題を呼んだ纏向で発見された巨大建築物群は東西軸を意識したものであった。そしてそれはまぎれもなく太陽の運行を司る王もしくは女王の館である。

神を祀る山これをカムナビと言っていいのだろうかの位置については、

ただ、三輪山も香具山も、纏向遺跡や藤原宮跡からみて「東」の山であることは注意される。カグヤマは輝く山とも理解でき太陽の昇る東の山の名として相応しい…【中略】…三輪山や二上山などを対象とした一定の信仰形態において太陽が昇り沈む東西軸が重視されることも周知のとおりである。

井上さやか「飛鳥の宮処とカムナビ山」『万葉古代学研究年報』第12号2014年

と東西軸を重視する時代があって、そののちに南北を軸として重視する大陸風の方位観が優勢となり、例えば藤原京や平城京の都市計画に繋がってゆく。

だから、仮に神武天皇の御代に行われたという「郊祀」が千田氏が想像するように、「神武紀の一部に欽明朝の状況が挿入され」たものとし、その際の祭りの場がその宮処の南に聳える「鳥見山」とする考えが成立するためには、「欽明朝」における方位観は南北軸を重視するものであったとしなければならないような気がする。

磯城嶋金刺宮跡が「伝」ではなく確定されたもので、その柱跡などで建築物がどちらを重視した建造物であったか…そんなことがわかればはっきりするのであろうが、それは望むべくもないことである。

むろん、その方位観は日本書紀の編纂者のそれであった可能性は高い。そうだとするとそれは南北軸を重視する方位観に基づいた記述がなされていたとみることが可能性が高いとみてよいだろう。だとするならば、少なくとも日本書紀の編纂者の脳裏にあった「鳥見山」は外山の「鳥見山」であったのだろう。ただそれは欽明朝に行われた祀りが宇陀の「鳥見山」ではなく外山の「鳥見山」で行われたとする材料にはならない。

また、その当時の都である平城京であってもその東、春日の山や御蓋山は平城京から見て日出づる方向にあって信仰を集めていた。だいたい、春日大社自体、南を向く南北重視の社殿があって、それと並行として東向きに、聖なる御蓋山を拝するためにその山頂付近にある本宮を参拝するための参拝所や、若宮が西向きに設けられている。春日大社の創建は768年。日本書紀の完成が720年。日本書紀の編纂者たちは、おそらく南北軸を重視する方位観の持ち主であっただろうが、同時に東西の軸を尊重する古来の方位観を理解はできていたであろうとは思う。

となれば、日本書紀の編纂者たち・・・・・・・・・・が神武紀において「鳥見霊畤」について言及したとき、彼らは果たしてどちらの方位観を重視して書いていたのか・・・・・・・というところが一つの問題となろう。そして問題はもう一つある。それは千田氏の言うがごとく、欽明朝において郊祀が行われたとすれば、その祀りは・・・どちらの方位観を重視して行われたのか・・・・・・…という問題である。

さあて、問題はいよいよ確信に近づいてきた。が、これ以上は私の力に余る問題になってきた。あとは、皆さんが…

…と言い放つだけでは少々無責任である。それこそが私であると言ってしまえばそこまでであるが、少々心苦しい気もする。そこで最後に、皆さんのご想像の一助になればとおもって、ほぼ同じ場所「伝磯城嶋金刺宮跡」から約100m程東に行った式島橋のたもとでで撮った二つの鳥見山の写真をお示しする。

一つ目は、外山の「鳥見山」

続いて宇陀の「鳥見山」

いずれの写真も、今ある近代的な建造物を取り除き、上古の風景を思い描くだけの想像力を必要とするものだから、すぐにはぴんと来ないかもしれないが…そのややこしい作業の先に真実は開けている自信はない。さあ、どうぞご自由にご想像いただきたい。

コメント

  1. 玉村の源さん より:

     大変に興味深く拝読しました。
     史実としての神武天皇の鳥見山と考えると、考察することの意義に?が付きそうですけど、千田説のように、欽明朝の時代の反映と考えると、にわかに面白くなってきますね。
     その際の、東西の軸と南北の軸との時代差、面白いです。
     立体地図、とても分かりやすいです。
     これを見ると、南の鳥見山は敷島金刺宮附近から真南に当たりますが、東の鳥見山の方は、確かに初瀬の谷のちょうど奥(よりもやや左)当たるものの、真東よりは少し北に振れた位置ですね。その辺がちょっと気になりました。

    • 三友亭主人 より:

      お返しが遅くなり、申し訳ありませんでした。

      >千田説のように・・・
      まあ、千田説が説くところが正解かどうかは別にして、記紀にある伝承を、伝承として済ませない態度には興味が惹かれました。
      かねがね感じていたことですが、なかなかこのようには…(*´ω`)
      歴史的事実ではないとすますさずに、そこに何らかの歴史的事実の影を探す・・・なんとも面白そうなことですね。

      >真東よりは少し北に振れた位置…
      そうなんですよ。もう少し離れた…大伴家の竹田の庄あたりからでも、三輪山の南に引いた山裾の向こうに見えるのですが、
      https://ohomiwa.files.wordpress.com/2019/10/4dcc2-imgp4021.jpg
      写真の右端、ってものの横にひょこっと聳えているのが「鳥見山」です。
      この写真の辺りからだと、ほぼ真東になろうかと思います。この角度は…三輪山からちょいと離れなければ見えません。