あをによし奈良の都は

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あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり

奈良の都は咲く花が美しく照り映えるように、今が真っ盛りである。

小野おゆ/万葉集3/328

小野老は728年の4月頃に大宰少弐として大宰府に赴任した。そして同年10月頃、朝集使として平城京に赴く。任を終えた後、翌年3月頃までに平城京にとどまり、4月に大宰府へ戻ってきた。その直前の2月11日、平城京にあっては長屋王の変が勃発、騒然たる雰囲気が漂っただろうことは否めないが、それも落ち着いた3月初旬に叙勲が行われている。小野老もこの時に従五位上に昇進している。この729年3月の叙勲は長屋王の辺の際の功に対してのものだったと考える向きもあるが、そうすると、小野老も藤原氏に近い位置であった可能性が生じてくる…なんてことを考えてみたくなる。

その後、老はその本来の任を果たすべく太宰府へと帰る。おそらくこの歌が披露されたのは、彼を帰りを歓迎する宴だったのであろう。そして、そうであるとともに、その宴は彼の昇進を祝う宴でもあった。

遠く筑紫の国で、しきりに大和への望郷の念をつのらせている一座の者達は、この直前まで、奈良の都にいた小野老に、「今の平城の都の様子はいかに…」としきりにたずねたであろうと思う。その答えがこの歌である。

遷都して20年になろうとしている平城の都は、まさにその偉容を帝都にふさわしいものとしていた。さらに、季節から言っても、老は「梅」、そして「桜」などの盛りの季節を過ごした後、筑紫に下っている。彼の目に映った平城の都はまさしく「咲く花のにほふがごとく」といった状況を呈したのであろう。その思いを彼は歌に託した。

「あおによし」は「なら」にかかる枕詞で平城の地の北側の丘陵地帯で、顔料に使う青土あおにの良質なものが産出されていたことから生まれた語だという。「にほふ」とは臭覚のそれではなく、花などの美しさが周囲に照り映える様子を言う。この歌が披露されたとき、一座の面々はその心中に、彼らの記憶のうちにある、懐かしい平城の地に咲き誇る花々を思い描いていたであろう。「花」は上記によれば、作者の脳裏に浮かんでいたのは「梅」「桜」の類であろうと推定されるが、限定は出来ない。聞いたものがそれぞれの花を思い浮かべていたとしても良い。事実、下に示す大伴四綱の歌では、この歌を受けて「藤波」がその素材として用いられている時期が時期だけに「藤波」=「藤原」なんて邪推をしたくもなるが…これは単なる妄想である

ところで一座がそうやって望郷の念に浸っているとき、その場の主人であろう太宰の帥、大伴旅人の思いを気遣ったものがいる。65歳という高齢の上、この筑紫の地に赴任してから妻を失った旅人に

藤波は 今を盛りに 咲きにけり 奈良の都を 思ほすや君

この筑紫の地の藤の花は今をまさに盛りと咲き誇っています。おそらくは同じように藤の咲き誇っているであろう平城の都を思い出していらっしゃいますか、我が君よ

大伴四綱 /万葉集巻3/330

と歌いかけたのは、大伴四綱だ。春たけなわの筑紫の地、眼前には大海の波のように藤の花が咲き連なっていたのであろう。そして、同じようになつかしい平城の地も。そして、そのさぞや美しいであろう平城の都を思えば思うほど、遠き筑紫の地にいる我が身がまどろっこしく感じられる。そんな思いは自分だけではないはずだ…と四綱は思う。

齢60を越え、遠い筑紫の地に派遣され、なおかつこの地で糟糠の妻を失った旅人のことを…

大伴旅人の望郷の歌はかくして生まれた。

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ

大伴旅人/万葉集巻3/331~335

そこには、老齢の旅人の思いを気遣う、四綱の心優しい気配りがあったのだ。


以上は、以前書いたものの焼き直しである。季節が季節なのでふと思い出してみた。