行ったことのあるところ…東京 8(続 ああ、上野駅)

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そして…東京メトロの改札を出て、上野駅の中央改札の前に出た時、私に忘れかけていた一つの感情が蘇ってきた。


と前回を結んだ。一体何が蘇ってきたのか…

北に向かう新幹線が東京駅に乗り入れをするようになって、その役割は大きく変わってしまったが、上野駅の中央改札を抜けたその先はかつて北の玄関口と言われていた。東北の地に育ち、大和に出てきた私がこの場所に立ったことは幾度あったことだろうか。

一刻も早く郷里に帰りたいと思い、少しでも長く郷里で過ごしたいと思っていた、大和に出て間もなかった頃は、贅沢をして東北本線の特急なんかに乗ったりもした。けれども、これまで述べてきたように朝一番に大和を出て昼前に東京につき神田の古書街をふらつくのが常になってからは、できる限りその時間を長く確保するために夕刻のギリギリまで神田神保町をふらつき、暗くなってから上野に向かい、駅周辺の食堂でビールを舐めながらその日の収穫物をパラパラとめくることが無上の楽しみとなっていた。

したがって、上野から仙台に向かうには夜行急行を使うことが多くなった。夜、11時頃に上野を出れば、翌朝の5時過ぎには仙台に到着。重い荷物なにせ本は重いはコインロッカーに預け、仙台の駅近くのビルの地下にあった吉野家で朝定食をいただき、仙石線に乗って…というのが、お決まりのパターンとなっていた。

そんな思い出の一コマが、けっこう鮮やかな映像となって蘇ってきたのだ。

そして…忘れてはいけないのは、ある年齢以上の北で育ち東京あるいはそれ以西に出てきた人間であるならば、おそらくは例外なく、この駅について抱くある種の感傷である。

私は集団就職の世代ではない。だから、この歌に歌われているすべてを共有することはできないが、上野の駅が何かしら特別な駅であるという感情は少なからずある。

新幹線に乗って、東京駅に降りても異郷にあるという感覚は大和にいるときとさほど変わりはない。けれども、山手線にほんの10分弱乗って上野で降りるのと空気がガラリと変わっていることを私は感じていた。

人々の言葉の中には、私の耳に馴染んだ北の人々の訛が交じることが多くなる。東京の駅ではあまり見かけない、風呂敷包みを持った、腰の曲がったおばあさんの姿も見かけるようになる…いや、これは私が勝手の思い抱いているノスタルジーに過ぎないのかもしれない。

けれども、この駅が私に「帰って来た…」と思わせる何かがあることは確かであった。

もうすでに上野の駅が北への玄関口ではないことを私は知っている。ただ、目に入る13番ホームから17番ホーム以前は20番まであったように記憶しているが思い違いだろうかまでの光景は、確かに私に郷里を思い出させるに十分な情緒を漂わせていることは変わらなかった。

変わっていたのは…その日の私はこの上野から山手線に乗り東京から大和に向かおうとしていたことだけである。

コメント

  1. 薄氷堂 より:

     青森~上野間の寝台特急は何度か利用しました(なつかしい)。上野駅は特に庶民的な雰囲気がありましたけど、しばらく訪れていないのでどうなったことか、駅舎は改築されたのでしょうか?

     人々の訛りといえば、昔々盛岡から青森までの鈍行に揺られたことがありまして、途中乗り降りする人々の土地訛りが、一種独特の音楽を聞いているようで心地よかったことを思い出します。まったくとげとげしさがなく、ポツポツとしかしゆったりと流れて、目をつぶっていると別天地にいるような気分がしましたよ。もう一度味わいたいものですが、今となっては無理でしょうか。

    • 三友亭主人 より:

      薄氷堂さんへ

      >駅舎は改築されたのでしょうか?
      少なくとも私が行ったときは昔のままでしたね。でもそれはもう10年も前のことですから。
      それにしても…私の場合夜行の急行に乗るのは仙台まででしたからねえ…そこから青森までって結構ありますよね。岩手は南北に長いですから。
      それに薄氷堂さんの場合は青函海峡を渡って、さらに函館から釧路までですからさぞや大変だったでしょうねえ。

      >人々の訛りといえば、
      おんなじ東北弁でも地域によってその語彙や訛の度合いは違うもので…私の場合、南部のあたりまでの言葉はわかるんですが、津軽まで行っちゃうとわからなくなってきます。
      学生の頃、土建屋さんでアルバイトをしていたら、そこに津軽から出稼ぎのおじいさんの集団がやってきまして、東北出身だということで私が「通訳?」の任に当たったのですが、結構やり取りに苦労したのを覚えています。