萬葉一日旅行2023(7 )

シェアする

楽しかった萬葉一日旅行もいよいよ終りが近づいてきた。あの日萬葉一日旅行があったのは5月14日からはからは、もうすでに二月近く。せっかくの先生方のお話もそろそろ記憶の彼方に去ってしまった。前回あたりも後半はだいぶ怪しいお話ばかりになってきたが、今回はさらに怪しいお話になってしまうこと必定である。心してお付き合い願いたい。

さて、履中天皇の磐余稚桜わかざくら宮跡と伝えられている稚桜神社をあとにして向かったのは…

安倍寺跡である。この地域一帯は、古代豪族安倍氏の本貫地。「アベ」は、古くは「阿部」であったが、平安朝初期から現在の文字面に改めたと言われている。この安倍寺は7世紀中頃の建立と伝えられているから、「阿部」寺としたほうが良いのかもしれないが、石碑に「安倍」とあるので、以下、「アベ」の表記は「安倍」で統一する。

安倍寺は安倍氏の氏寺で正しくは崇敬寺というのだそうだ。建立は山田寺の創建とほぼ同じ、7世紀半ばか、とされている。東大寺要録には安倍倉梯麻呂くらはしまろの建立だと記されている。最終的に伽藍を整備したのは安倍朝臣御主人みうしの時代であることが近年わかってきた。

現在、この安倍寺跡には、塔の基壇後ぐらいしか目につくものはないが、往時は200m四方の寺域を持つ大寺で、法隆寺式あるいは川原寺式の伽藍配置であったという。


続いて訪れたのが石寸いはれ山口神社。「石寸」でなぜ「いはれ」と読むことが可能なのか甚だ疑問なのではあるが、「いはれ」を「石村」と表記することもあるそうで、その「村」の「寸」だけを残したものだとも言う。

石寸山口神社は数ある「山口」神社の中でも、延喜式祈年祭の祝詞に、

山口に坐ます皇神等の前に白さく 飛鳥 石寸 忍坂 長谷 畝火 耳無と御名は白して

と、特に挙げられている大和六所神社の一つである。大和志江戸享保年間の地誌によれば当社は元は双槻なみつき神社と呼ばれていて、用明天皇の池辺双槻宮との関わりも囁かれて入る。

江戸時代以降、荒廃し社域も狭小となったが、現在は我が桜井市の地場産業の材木業の神として、業者たちの信仰を集めているという。

続いては本日最後の訪問地である神社。

鳥居をくぐると下の写真のような井戸がある。脇にある石碑には「若桜の井戸」と記してある。

わが町、「桜井」という地名のもととなったとのいわれがある井戸で、なんでも履中天皇が愛でた井戸のもとに桜が植えてあったという故事に因むものだという。むろん、この地名起源についてはいささか「?」と思われるフシはあるのだが、ここはそんな無粋なことは言わないでおこう。

とにかく、何やら曰く有りげな井戸を右に見つつあまり長くはない石段を登ると若桜神社がある。若桜部朝臣や阿部朝臣の祖神といわれる伊波我加利いはがかり命を祭神で大和志には「在桜井谷邑 今称白山権現」とあり、延喜式神名帳城上郡の若桜神社に比定されている。鎮座する場所は前方後円墳の後円部の残丘と言われており、周辺の崖面からは古墳時代中頃の埴輪の破片なども見つかっている。

最終の目的地、若桜神社へのお参りが済んだ後は解散場所である桜井駅に向かうばかり…と、ほんのちょっと歩いたら…

何やらまた曰く有りげな井戸がある。「はて?」と思って傍らの石碑を見る。

「櫻の井」は第十七代の履中天皇かめでさせられた清水で桜井市発祥の地である。井は深さ九尺余、経約一尺二寸円形に積みあげた生れ石は苔むして千五百有余年の昔を物語っている。井水は、鏡の如く澄み、特別な甘味があり、水量豊かで、昔から大和の7ツ井のひとつであった。この地に稚櫻部氏の祖神を祭る稚櫻神社の北にあ当り、井戸のほとりに桜が植えられていたことから「櫻の井」と呼ばれた。

と刻んである。

「…???、これが「櫻の井」で、桜井という地名の由来であるというのなら、さっき見た若桜の井戸は何だったんだ…」

と怪訝に思う。

一方は「若桜の井戸」であり、しかも傍らの石碑には「復元記念」とある。そしてもう一方は「櫻の井」である。この両者の関係はいかようなものか…?

私がこの「櫻の井」の前に着いたのは、ちょいと遅れてであったので、残念ながら、先生方のご説明は終わっていた。なので、このあたりについてのお話があったのか、なかったのかはわからない。

ともあれ、後は駅に向かうのみである。ここから駅まで…もう何もなかったはずである。